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目的のために「手段」認定すると楽しくない

手段であって目的ではない、とよく言われる。現代の格言と言っても良い。英語を使って何をするかが重要なのだから英語を覚えることは手段でしかない。いかにももっともらしい。

ここでいう手段は目的を達成するための方法という意味だから、目的を何にするかによって何が手段になるのか異なる。目的によって変動する定義なのだから一般論として「○○は手段だ」と断じるとおかしい。宇宙全体の幸せが目的の人にとってはそれ以外の行為全てが手段でしょう。

一人の人間に対して目的が1つ、という決まりもない。同じ人間でも目的はいくつもある。ゲーム開発者がゲームプレイすると遊んで楽しい(プレイヤーとしての目的そのもの)と知見が増えた(開発者としての手段)と両方共存する。

手段であって目的ではない論法を目にした時、近視眼的で今まで見えていなかった目的が見えてよかったと思うなら良いけれど、自分のやっていることは手段でしかないのかと卑下するなら良くない。結局のところ、何をしたいの?どうしたいの?というのを自覚しましょうということでしかない。

これは経験的にだけど「手段」認定するとその行為が楽しくなくなるので基本的には目的であり手段でもある方が良い。よくプログラミングも手段であって目的ではないと言われる。確かにアプリケーションを作るためのプログラミングは手段だけど、より美しく保守性の高いプログラミングを考えてるときはそれ自体が達成したい目的だったりする。そう感じて頭を使う方が楽しいし創造的になる。もちろんそれを客観的に俯瞰してみれば「手段」認定できるけれど、そんなに手段手段言わなくても良いのではと思う。

noteでプログラミング超超超入門を書いてみる

プログラムが魔法でないことを知ればあなたもプログラマになれる

noteデビューしてみた。プログラミングの入門書って入門の割に初心者ブレイカーなことが多いとずっと思っていて、今日ふと思って書き始めてみた。プログラミング超超超入門として時間を見つけて書いてみたい。

家事分担における不平等感の解決

家事を分担すると、不平等に感じることがよくある。この不平等感の原因に「隣の芝生は青い」問題と「隣の芝生は本当に青い」問題を挙げたい。

「隣の芝生は青い」問題

Aはお風呂掃除を担当し、Bはトイレ掃除を担当するような場合。Aはトイレの方が掃除する面積が狭いから自分より楽だろうと思い、Bはお風呂は汚くないから良いなと思う。

このように自分が担当していないものの方が楽だと思ってしまいがち。とはいえ、気をつけて直せるようなものでもない(そう思ってしまうのは仕方がない)。

「隣の芝生は本当に青い」問題

Aは育児を担当し、Bはお風呂掃除とトイレ掃除と他にもたくさんの掃除を担当するような場合。仮にBが時間的に育児に匹敵するほど掃除をしていたとしても、実際のところ、精神的な負荷は圧倒的にAの方が大きい。そのため作業時間が同じでも不平等。Bは(時間的に)自分もたくさんやっていると感じているので、すれ違いになりやすい。仕事担当と育児担当で相殺しようとするとこれになりやすい。

※育児の方が圧倒的に大変かどうかは個人差があるので決め付けられないけれど、わかりやすそうな例として。

解決方法

私はXをするので、あなたはYをする、といった異なる作業で分担するのをやめる。私はXを1日10回する、あなたは仕事があるので回数は少なくて良いけれど同じXを1日2回する、のように時間や回数の比率で分担をすると良い。

時間/回数が異なっても作業内容が同じなので、隣の芝生にならず自分の芝生になる。自分の方が大変だ、という見解になりにくい。何より相手の大変さが理解できるようになるので誤解が少なくなり、必然と不平等感も少なくなる。

VRオフィスを使う10年後のリモートワーク

主にIT分野を中心にリモートワークが普及してきているように思う。もちろんメリットはあるけれど、デメリットもあるので、リモートワークの方が良いと断言できるようなケースはむしろ希であるように思う。

リモートワークのメリットとしては、遠隔の人を採用できる、家に一定時間居なければならない人でも働ける、通勤時間がなくなる、などがあり、デメリットとしては、コミュニケーションが難しい、作業管理が難しい(本当に働いているのかどうか)、などがある。

僕は将来リモートワークは採用する、しないではなくて当然になると思っているけれど、デメリットをどうやって克服するのかが問題。

オフィスに出勤している(リモートではなく)による恩恵は次のようなものがある。

  • その場所にいる(確実に仕事をしていることの証拠(ネットサーフィンしてるかはさておき))
  • 状況が読み取れる(忙しそう、休憩中、話しかけても良いか)
  • 会話に使えるツールが豊富(表情や動作を見ての会話、ホワイトボード、紙、その他多数)

つまり、空間を共有しているということが大きい。

ビデオ会議でも表情や簡単な身振りは読み取ることはできる。ただ、同じ空間で感じられる情報に比べればかなり欠落している。例えば、向こうで何か音がなったから少し振り向いた、といったことがあっても、立体的な音を共有していないので伝わらない。

この「空間」を全部VRVirtual reality)に持っていけたら、物理的オフィスの意義がほとんどなくなる。

ただ、持っていけたら、というがもちろん現時点では難しい。実現にあたっては次のような点が必須だと思う。

  • VRに入ることが非常に簡単なこと
  • リアル空間と同等のツールが使え、同じ情報量が存在していること

10年後、どうやってこれを実現しているだろうかと考えると、きっと部屋ごとVRだと思う。

オフィスと個人の部屋やVR専用スペース(カフェ?)などを全て連結して一つの空間を作り、その映像を壁全体に投影して、共有空間を作る。音も方向に応じて鳴る。

スーパーの商品棚の端が鏡になっているのと似ていて、鏡の先が反射した商品ではなく本当に別の空間になっている感じ。

壁に向けてプロジェクタを設置するだけだと臨場感が低すぎるので、壁一面ディスプレイや非常に高解像度な投影など設備が必要になるし、音も環境音と主音をうまく制御できないと聞き取りが難しい。

だから、全員在宅勤務というよりは、専用の場所を使ったり、数人だけの小さなオフィスだったりが多いのではないかと思う。もちろん個人向けのツールも普及すると思う。

主に社内(勤務)を想定してここまで書いたけれど、これが実現すると営業活動、取引先との会議など社外での利用も当たり前になると思う。

現在はゲームを中心に第一人称カメラによる臨場感(没入感)が重要視されているけれど、今後、環境的なリアリティも重要になってくると思う。

こういうのはVRではなくMRではないかと言われそうだけど、おそらく単なるR(リアルが繋がってるだけ)か、やはりVR(みんなでバーチャル)か、という感じがする。

将来、賃貸の情報に「VR対応」とか書かれている日が来るかもしれない。

弦をDRに変えたらコシのあるサウンドで満足

最近のアーニーボールは以前ほど寿命が短くないと言う話をネットで見かけて、それならあのギラギラをと思って張り替えてみたのだけど、記憶のギラギラはなく(記憶なので不正確)少しまったりした感じの音だった。

それ自体は単なる記憶との差なので、まぁこんなものかなと思っていたら、弾いている最中に1弦を切ってしまった。

もう何年もギターを弾いている最中に弦を切っていないので、アーニーボールの印象が大分悪くなってしまった。

ダダリオやディーンマークレーに戻るのも面白くないので、改めてネットで評判の良い弦がないか探したところ、最終的に DR にしてみた。

なかなか良い。金属感はほどほどで高音の煌びやかさはそこまで強くないけれど、中音がしっかり鳴る。ディストーションとの相性もよく存在感のある音がする。手触りも良い。

張り替えてから十日ほど経っているけれど、あまり劣化していない。

知らなかったけれど、ダイムバッグ・ダレルが使っていたみたい。

しばらく DR を使ってみようと思う。

子供にレッテルを貼らない

「魔の2歳児」という言葉がある。「悪魔の3歳児」「天使の4歳児」というのもあるみたい。魔の2歳児はイヤイヤ期とも言われている。

子供が0歳〜1歳くらいの時に先輩パパ・ママたちに「今が一番可愛いいですよ。2歳になったら大変よ」とたくさん脅された。

子供はその時々でそれぞれ可愛いだろうし成長による充実もあるだろうから、先輩方のお話は話半分に、いや本当のところは話一厘くらいにしか聞いてなかった。

そして、2、3歳が過ぎて感じるのは、やっぱりそんなことはない、だ。

子供は脊髄反射でイヤイヤ言っているわけではなくて、もっと遊びたい、などのやりたいことの裏返し表現であることが多いように思う。そして、それは多くの大人たちと同じだと思う。ドラクエをもっとやりたいのに皿洗いしろだの早く寝ろだの言われた時の気分を考えて欲しい。子供の嫌がる気持ちはほとんどの場合で共感できた。

もちろん、子供のやりたいことを全て叶え続けることはできず、子供の嫌を押し切って進める結果、泣かれることもあるし、それ自体は親にとってストレスである。ただ、だからと言って、子供の主張が理不尽というわけではない。

僕は「魔の2歳児」という表現は良くないと思う。このようにレッテルを貼ってしまうと、子供が嫌と言う理由が「2歳だから」になってしまう。子供を「どうせ子供だから」と決めつけずに、大人と同じと考えれば、不思議な行動なんてないし「魔の」(や、悪魔の)などと揶揄されるような邪悪なものでは決してないと思う。

親が推測しきれなくてわからないことはたくさんあるけれど、それも単にわからなかっただけ。大人同士でもよくあること。というか日常的なこと。

未だに「今が一番可愛いですよ!」と言われることがあるけれど、今も将来も可愛いでしょ?と心の中でつぶやいている。