移転しました。

人を評価するということ

昇給をネゴしてみようを読ませて頂いて感じること。
ここに書かれている内容は昇給を実現するにはベストプラクティスかなと思ったりする。会社(実際には上司とか)の判断は神の判断ではないので、不公平にもなるだろうし、関係のない要因で決まることもあるだろうから、そこの判断を平均化(もしくは自分を有利に)するのはまさに雇われている自分自身が行うべき作業だろう。
ただ、自分はこの社会感が好きではないので、自分の成果を主張することはあまりしないようにしている。上記エントリでも

契約上で自分と対等の関係だ。

という表現があるのだけど、自分はもう一歩違う視点で、会社と自分は人付き合いだと思っている。あまり上手い例が思いつかないけれど、引越しを手伝ってくれた友人に今日は奢るよという気持ちかな。会社は一方的に給料を決めて良いとは思うけど、気に食わない内容であれば会社を去るのみという関係がきれいだと思う。つまり、会社が誤った評価を行えば、優秀な人材はどんどん別の会社に行ってしまうので、会社とて高飛車ではいられない。
残念なのが、実際には雇われ人というのはそれ程自由に転職できない。あらゆるリスクを背負うし、そもそも日本では転職という行為自体を受け入れない会社も多い。実際に私は転職数が多いので大企業に何のコネもなく書類を出すとほぼ100%落ちる。
少し話を戻して、「昇給をネゴしてみよう」にあるような主張が好きではないのは、「アピールの上手い人が評価される」と思えてしまうからだ。自分がそんな捻くれた考え方をするのは、他人の成果を横取りして出世する人を多くみたからだと思う。
例えば部下に無茶苦茶な労働をさせて、「部下の能力はとても低かったが、短期間で素晴らしい成果を収めました!」と主張する人がいたとする。部下が告発しなければそれで終わりではないだろうか。上司だけが評価される。実際にこんなケースは一杯見た。
だから、自分のやった成果は正しくアピールしたほうが良いよ、という論はわかるのだけど、それ以上に評価を行う人はアピールされなくても把握できる状態でなければならないと思っている。人を評価するということは、それだけ大変で責任があり取り返しのつかない行為だと思うから。
一応補足しておくと、「昇給をネゴしてみよう」のエントリ内容自体を批判する気は毛頭無い。

ネゴシエーションで勝ち残った人達だけが昇給を受けることが出来る。

という事実を悲しく感じただけなので。