目的のために「手段」認定すると楽しくない

手段であって目的ではない、とよく言われる。現代の格言と言っても良い。英語を使って何をするかが重要なのだから英語を覚えることは手段でしかない。いかにももっともらしい。

ここでいう手段は目的を達成するための方法という意味だから、目的を何にするかによって何が手段になるのか異なる。目的によって変動する定義なのだから一般論として「○○は手段だ」と断じるとおかしい。宇宙全体の幸せが目的の人にとってはそれ以外の行為全てが手段でしょう。

一人の人間に対して目的が1つ、という決まりもない。同じ人間でも目的はいくつもある。ゲーム開発者がゲームプレイすると遊んで楽しい(プレイヤーとしての目的そのもの)と知見が増えた(開発者としての手段)と両方共存する。

手段であって目的ではない論法を目にした時、近視眼的で今まで見えていなかった目的が見えてよかったと思うなら良いけれど、自分のやっていることは手段でしかないのかと卑下するなら良くない。結局のところ、何をしたいの?どうしたいの?というのを自覚しましょうということでしかない。

これは経験的にだけど「手段」認定するとその行為が楽しくなくなるので基本的には目的であり手段でもある方が良い。よくプログラミングも手段であって目的ではないと言われる。確かにアプリケーションを作るためのプログラミングは手段だけど、より美しく保守性の高いプログラミングを考えてるときはそれ自体が達成したい目的だったりする。そう感じて頭を使う方が楽しいし創造的になる。もちろんそれを客観的に俯瞰してみれば「手段」認定できるけれど、そんなに手段手段言わなくても良いのではと思う。